2009/05
からくり儀右衛門 田中久重君川 治


田中久重の万年自鳴鐘(万年時計)
国立科学博物館保存


 時計は六面体で、各面に和時計、洋式時計、二十四節気、七曜表、干支、月の満ち欠けが表示され、天頂部には太陽と月の軌道表示がある。大きさは高さ約60cmで一度ゼンマイを巻くと1年間動き続ける優れものである。
 実は和時計1つ取っても大変な仕組みで、日の出から日の入りまでを6等分(四から九)する不定時法であるため、季節ごとに文字盤が変化しなければならない。この仕掛けが大変な発明で、博物館・東芝・東京大学・セイコーなどの技術者の手で研究・解明が続けられている。
 
 JR久留米駅前に太鼓時計があり、毎時正時にからくり時計が動き出す。この日は地元出身の歌手松田聖子の「赤いスイトピー」の曲と共に動き出した。時計の中からからくり儀右衛門こと田中久重が現れて、彼が発明・製作した無尽灯、万年時計、蒸気機関車などについて説明してくれる。
 久留米はこの田中久重の出身地であるが、彼が日本の機械工業や電気産業の基礎つくりに貢献したことを知る人は少ないようだ。久留米は久留米絣やゴム産業の街である。地元では久留米絣の発明者井上伝やゴム地下足袋の発明者石橋徳次郎、ブリジストンの創業者石橋正二郎が有名である。
 田中久重が後世に残した遺産は非常に大きく、東洋のエジソンとまで言われており、怪しげな金融工学が世界経済を破壊した現状を打破するためには、もう一度、物作りの原点に回帰すべきだろう。
 田中久重は寛政11年(1799)に久留米の鼈甲職人の長男として生まれた。鼈甲は高価なものであり、久留米藩に出入りして家は裕福であった。久重は子供の頃から手先が器用で、モノつくりが好きな子供であった。近くの五穀神社で祭礼のとき、からくりの興行が有り、これに興味を持った久重はからくり作りに熱中するようになった。器用なだけでなく創意工夫の才能に恵まれた久重は次々と新たなからくりを作り出して、得意の水からくりなどを大人に混じって神社の催しに見世物として出していた。
 からくりは今風に言えば自動機械とかロボットであり、その元は徳川家康に贈られた西洋の時計が起源のようだ。手先の器用な日本人は、時計の修理から機械の自動化の仕組みを知り、多くのからくり細工師は生まれている。有名なのは土佐の細川半蔵で、からくり機械の構造を書いた「機巧図彙」を出版した。田中久重や加賀の大野弁吉、谷田部の飯塚伊賀七などが、この本を参考にしたと思われる。
 久重は家業を弟に譲り、からくり師を専業として大阪に出た。彼のからくりは興行師より発明家に重点を置いており、実用的な機械を次々と考案・製作している。その一つ、無尽灯は、当時使用していた菜種油の粘性が強いため、圧搾空気で油を押し上げて安定して油を点す発明であり、京都・大阪でヒット商品となった。この他風砲(空気銃)や運竜水(消火器)などを製作して販売しているが、彼の得意の技術が水や空気などの流体が多いことは注目に値する。これが後の蒸気機関の製作に結びついた。
 久重は京都に移り、蘭学者・化学者広瀬元恭の時習堂門下生となり、西洋の科学技術を学ぶ。同僚には石黒寛二、中村奇輔、佐野常民がいた。
 佐野常民は佐賀藩の蘭方医であり、藩命で蘭学や西洋技術を学んでおり、佐賀藩精錬方の主任となり、蒸気船の開発を命じられる。この為、時習堂の同僚の石黒・中村・田中を佐賀藩に招聘した。石黒・中村は蘭学者であり、オランダ語の蒸気機関の本を翻訳し、これを製作したのが田中久重である。田中久重は佐野・石黒・中村と共に幕府長崎伝習所の伝習生となり造船・蒸気機関などの西洋科学技術をオランダの技術者から直々に学んだ。佐賀藩では安政2年(1855)に蒸気車と蒸気船の模型を製作して試験をし、この成功が1865年に完成した蒸気船凌風丸につながる。
 久留米の出身なのに隣の佐賀藩で活躍する田中久重を久留米藩は取り返したいと交渉するが、佐賀藩も久重を重用しており簡単には手放してくれない。その結果、田中久重は体を二つに裂かれ、佐賀藩と久留米藩の双方に仕える身となった。
 明治維新となり新政府は中央集権政権を樹立するため、鉄道と通信の全国網建設が急務となった。工部省電信頭は佐賀藩出身の石丸安世となり、佐賀で知己の田中久重は電信機を製作する工部省製機所への出仕を要請された。田中久重はこの時既に70歳であったが、電信機製造の主導的役割を担い、明治8年(1875)に田中製造所を設立し、後に芝浦製作所となる。同じく製機所で働いた岩国出身の三吉正一は三吉電機を設立し、これが藤岡市助の東京白熱電灯球製造に継承されて東京電気となる。東京電気と芝浦製作所と合併して東京芝浦電気となり、現在の東芝となった。
 2003年6月に江戸開府400年に因んで、国立科学博物館で江戸大博覧会が開催された。テーマは“モノつくり日本”。江戸時代の“からくり人形や機械”を再現してみせ、時計や望遠鏡、測量機械などを展示していた。からくり人形では細川半蔵の「茶運び人形」や田中久重の「弓引き童子」など見ていて楽しくなるものが多くあった。
 田中久重の最高傑作は万年自鳴鐘(万年時計・写真左上)であり、国立科学博物館に保存されて、博物館・東芝・東京大学・セイコーなどの技術者の手で研究・解明が続けられている。
 久留米の五穀神社境内には田中久重の胸像が、久留米絣の井上伝と並んで建っている。井上伝は子供のころから織物を習い、木綿織の技術が上達して霜降りや霰織り模様を考案してヒット製品を売り出していた。しかし、絵模様の製作には苦労していた。偶々近所に住んでいた田中久重は井上伝より11歳年下の子供であったが、お伝オバサンの話を聞いて、僅か1日で絵模様を木綿糸にプリントする方法を考えた。久重15歳の時である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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